池田草庵先生は、文化10年(1813年)7月23日に宿南の農村の農家、池田孫左衛門の三男として生まれました。子どもの頃の幼名は「歌蔵」といい、成長して「禎蔵」といいました。文政8年。13歳で広谷村にある満福寺という大きな寺院で出家し、弘補(こうほ)と名乗って仏の道を読み書きに励みました。幼少の頃から物覚えがよく、几帳面な性格だったといいます。草庵先生が17歳の時、満福寺の不虚上人(ふきょしょうにん)は広谷村に滞在していた京都の儒学者、相馬九方(そうまきゅうほう)の講義を学ばせました。そこで草庵先生は新しい学問に熱中し、自分の進むべき道は僧侶になるより儒学の道を学ぶことだと確信しました。天保元年(1831)に19歳で満福寺を出て上京し、京都の相馬塾に入門しました。草庵先生は雑用をしながら勉学に励み、一年足らずで塾頭となり、その後相馬塾で助教を務め、名前を緝(しゅう)、字(あざな)を子敬(しけい)としました。23歳の夏には相馬塾を去って京都梅宮に移転しました。翌年の天保7年(1836)には松尾神社の神官の草庵を借りて読書思惟(しい)に没頭したのです。そして「草庵」の号を使うようになりました。松尾山にいた6年間は「終日座して読む個人の書」といって、専心読書に励みました。28歳になった天保11年正月に帰国したとき、豊岡藩の家老舟木子新の招きで20日ほど豊岡に滞在し、藩士たちに講義をしました。この年の8月に京都に塾を開きました。31歳になった草庵は、天保14年(1843)に、郷里からの懇願によって八鹿に帰りました。八鹿村西村庄兵衛((しょうべい)・号は潜堂(せんどう))が使っていた一軒の私塾を借り受けて、池田盛之助、安積理一郎、北垣晋太郎(後の北垣国道)など15人の門人をえて、立誠舎という塾を開きました。しかし、弘化4年(1847)6月8日、35歳の時には宿南に青谿書院(せいけいしょいん)を建てて移ります。青谿書院で習性自分の学問の修養につとめました。そして国屋松軒(くにやしょうけん)の妹の久子と結婚しました。安政4年には45歳で「青谿書院記」を著しました。翌年からは「肄業餘行」(いぎょうよこう)を著し始めました。慶應元年(1865)、53歳で豊岡藩や福知山藩にたびたび出講するようになりました。草庵の学問は朱子学と陽明学を融合したもので、明治11年9月24日66歳で亡くなるまで、全国30カ国から集まってきた673人の人材を育成しました。豊岡藩の17人や多度津藩の21人をはじめ、出石藩、福知山藩、平戸藩、宇都宮藩などから多数の武士が派遣されて学びました。また、但馬の多くの有識者を育てました。青谿書院の母屋は宿舎と講堂を兼ね備えた木造茅葺きの建物です。二階建ての建物に平屋瓦葺き建物が増築されています。二階を生徒の宿舎にして、一階の六畳間が草庵の居室、隣の二つの八畳間が客間と講堂を兼ねています。昭和45年に県指定文化財になりました。

 草庵先生の歌

         作詞 児童・髙階麻利子
               
        作曲 山中佐恵子

 一 自然豊かな 宿南の
   青山川の せせらぎに
   草庵先生 生を受く 草庵先生誕生
   四人兄弟の 三番目
   やさしい父母に かこまれて
   村の期待を 背負います

 二 幼きときに 別れし父母
   満福寺にて 修行する
   読み書きそうじに はげみます
   読み書きそうじに はげみます
   やがてりっぱな 青年に
   儒学にひかれ 寺を出る
   雪のふりしく 寒い朝
  
 三 学問ひとすじに 生きようと
   ようやく京都に たどり着く
   九方先生 師とあおぎ
   九方先生 師とあおぎ
   終日黙座し 専心読書
   慎独の悟りを 開きました
   人が学びを求め 集まった


 四 草庵先生 帰郷して
   源氏山のふもと 塾を建つ
   青谿書院 立誠舎
   寝食共にし 塾生は
   やがて世に出て 日本の
   よきリーダーと なりました

 五 多くの人に 道説いた
   但馬聖人 草庵先生
   塾生と植えた もみの木 大木に
   み教え守り はげみます
   草庵先生 ありがとう
   青谿書院 ここにあり
         青谿書院 ここにあり